マドモアゼルジジの感光生活

カテゴリ:旅( 49 )

ボストンの旅⑮日本料理が流行っている。

It is said that a nation is made by what it eats :
undoubtedly diet affects character.
ーLesley Blanch

プルデンシャルセンターがホテルからすぐのところにあったので、
ボストンにいる間、毎晩そこへ遊びに行くことになった。
プルデンシャルセンターには
「wagamamaわがまま」という日本料理のお店がある。
「ロンドンにもあったよ」と同行者。
数日は遠目に見ていたが、「ファストフード店みたいね」と言いながら入ってみる。
オフィス街から直行したひとり客も多い。
ボストニアンらしくお行儀よく、本など読みながら、
上手にお箸を使っている姿を見かけた。
夕食時は行列ができるほどの混みようだ。
「速い」「手軽(コースになっていない)」「低カロリーでヘルシー」「もの珍しさ」「おしゃれ」
そんな魅力があるのかもしれない。私たちと逆バージョンのあこがれだ。
いつから、日本料理がこれほどまでに人気になったのだろう。
中華料理はいい。普遍的なおいしさがある。
しかし、繊細な日本料理が普及するのは難しいのではないか。
そういう話をしていたのは、確か30年も前のこと。
今は北米の大学の学食にさえ、すし、そば、照り焼きなどが入っている時代だ。
おいしいものは、世界中どこのものでもおいしい。
まずいものは、まずい。
グローバルスタンダードがはっきりと食にも及ぶ。
「wagamama」と帰りの日系飛行機の「焼きそば」がよく似ていた。
「太い麺」の「焼きそば」は塩だけで味つけしたもの。
ソースをもらいそこねたのではないかと、お隣をのぞき、
通路向こうのアメリカ人をのぞき、そして、あきらめた。
最初からソース味などではなかったのだ。
食においても、世界は「共有」することが多くなったと感じる。
by mllegigi | 2013-02-25 20:06 |

ボストンの旅⑭ビーコンヒルのお医者さんの家

A Proper Bostonian
ーJudithB. Tankard
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「ピンクニー通りまで」と言ったのに「どこにあるかわからない」ですって。
あなた、ボストンのタクシーでしょう?
数ブロックも先まで行って停まったくせに、
「あんたの発音が悪いから」と言わんばかりの顔をしている。
どこで降ろされたのかわからないが、あたりは美しかった。
深い緑色をした年代物のベンツが、ひっそりと駐車している。
ジョギングしているひともいる。
私は直感的に人間が住む最高の場所を、ボストンのビーコンヒルに定める。
今度生まれ変わったら、パリの6区に住みたいんだ、などという願望は
すぐさま、ビーコンヒルの住人になるんだ、という願いに取って代わる。
(ころころ簡単に変わります)
今日はみごとに晴れた暖かい冬の日、人通りも少ない。
今は晩秋ではないけれど、頭の中には
「小春日和のニューイングランド」というすてきな語句が駆け回っている。
マウントバーノン通りを歩いていて、
ニコラスさん(1840-1926)というかつてのお医者さんの家に行き合わせた。
そこはミュージアムで、お宅に上げていただけるらしい。
どうぞ、と招かれて、ツアーに参加するのは私たちのみ。
ボストンに来てから、ホーソーンの家、マーク・トウェインの家、ストウ夫人の家、
そして、ニコラスさんの家で4つ目のおうちを案内してもらうことになる。
ニコラス家は十分にお金があったのだろう。
家具や調度品、壁紙など目を見張る贅沢さであるが、
ここで聞いたお話は、19世紀後半から20世紀にかけて、
ビーコンヒルのような高級住宅地で暮らす女性たちが、
どんな教育を受け、どういう人生を送ったかという物語でもある。

ニコラスさんの3人のお嬢さんたちは、
マサチューセッツ工科大学(MIT)の通信教育を受けるなど高い教育水準にあった。
長女ローズさんは父親亡きあと、後継者となり、結婚せず生涯この家にとどまった。
気の強い性格から、ボスのように振る舞っており、
彼女だけ1部屋もらっていたことから察するに、
妹たちは彼女といっしょでは苦痛だったのかもしれない
自分の肖像画が嫌いで、目につかないところに隠していたらしい。
お父さんの診療ベッドは捨てずに部屋で昼寝用に使った。
また、彼女はひとを呼ぶのが好きで、よくお茶会を催したが、
食事会に招待しなかったのは、食べることより、むしろ会話を楽しむひとであったからだという。
もし客が、いい意見を述べたり、面白い話ができないと、
次から招待しない、というきびしい一面も。
古めかしい壁紙が嫌いで、食堂以外はモダンなもの、中国的なものに張り替えた。
名前がローズなので、ばらの柄は好きだった。
2番目の妹は、アメリカで初めて何らかの形で政治に関わった?女性。
ローズさんはすぐれた園芸家でもありライターでもあり、
ニコラス一家の3姉妹は独立心の強い立派な女性に育ったということでした。
(うる覚えにつき、誤りがあるかもしれません、お許し下さい)

ポストカードとローズさんの絵が書かれたカードを買いました。
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by mllegigi | 2013-02-24 23:09 |

ボストンの旅⑬フリーダムトレイルをすこし。

フリーダムトレイルはボストン市内にあるアメリカ建国の史跡をめぐる全長4kmのルート。
赤い線をたどっていけば、迷わないで歩くことができます。
ほんの少しだけ、歩きました。
このあと、MITを一目見に行きましたが、そのころにはとっぷり日が暮れていました。
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ビーコンヒルからダウンタウンへ行く途中のアパートメント。
古いなあと思って。
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by mllegigi | 2013-02-23 22:44 |

ボストンの旅⑫ユニオン・オイスター・ハウス

タクシーの運転手さんにこのお店の名前を告げるとすかさず
「日本人はみんなユニオン・オイスター・ハウスに行くんだね、どうしてだい」
とからかわれてしまう。
どうしてでしょう。
ボストン最古のレストラン(1826)だから、でしょうか。
お店の中はにぎわっています。
ケネディ元大統領がお気に入りの席もありました。
大きなコーンブレッドがついてきます。
ほんのり甘くて、ベーキングソーダをよく効かせたものです。
これは、非常にアメリカ的なパンだという気がしました。
クランベリージュースにカキフライと果物の盛り合わせ、レモンティ、
ロブスターも生ガキも、はずした、弱虫の私です。
揚げたてのカキフライはおいしかった。
隣の席の女性たち、多分地元の、は、メインのお皿を半分以上残しました。
ああ、どう考えても量が多すぎます。
十分なおもてなしをするという、ホスピタリティの精神ゆえのことでしょうか。

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by mllegigi | 2013-02-23 17:36 |

ボストンの旅⑪チャールズ通りの骨董屋とカフェ

新大陸と旧大陸が出会ってなめらかにとけこんでいるものも、
多少違和感を残しているものも、好き。
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下はツナサンドとロールケーキとココアを注文したお店。
朝も昼も夜もここで食事がしたい。
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by mllegigi | 2013-02-23 15:57 |

ボストンの旅⑩『若草物語』オールコット女史の家

オールコット女史の家だったところには、
看板も出ていなければ、案内もない。
ちょうど通りかかった郵便屋さんに聞くと、ここがそうだ、と言う。
ほんとうに?とたたみかけると、絶対そうだ、と言う。
ルイスバーグスクエアという公園が目の前にあるすばらしい場所だ。
19世紀に生きたアメリカの作家たちは、
まだ、手をのばせば届くところにいるような気がしてならない。
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写真:ルイスバーグスクエア

1885年のルイーザ・メイ・オールコットの日記には、
九月「ルイスバーグスクエアの家を二年間借りることにした。家賃は1650ドル。
   日当りが良くて、家の前には樹木があり、空気はきれいで、友だちの家も近い。みんな大喜び」
十月「新しい家に住む準備のために、甥とケイトといっしょにボストンへ。
   家のなかをくまなく点検して住めるようにした」と書かれている。
3年後の1888年3月4日に父が亡くなり、同月6日に彼女が55歳で亡くなった。
ふたりのお葬式はこの家で行われている。
参考『ルイーザ・メイ・オールコットの日記』西村書店、
『THE JOURNALS OF LOUISA MAY ALCOTT』The University of Georgia Press
by mllegigi | 2013-02-22 23:22 |

ボストンの旅⑨『かもさんおとおり』を懐(おも)う。

寒い日が続いたボストンで、思いがけず温かな日がおとずれた。
むかし、子どもといっしょに読んだ絵本に出ている通りを歩く。
ビーコン通り、エーコン通り、マウントバーノン通りなどを、行ったり、来たり。
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(PENTAX Q10)
by mllegigi | 2013-02-22 19:46 |

ハートフォードの旅⑤アメリカの底力

Life would be infinitely happier
if only we could be born at the age of eighty
and gradually approach eighteen.
ー Mark Twain
これは『ベンジャミン・バトン』(フィッツジェラルドの作品)のほうが、彼の言葉から発想を得たのかもしれません。
80歳で生まれて赤ちゃんに戻っていく映画がありました)


今回の旅で一番大事に持ち帰ったもの、この小さな紙切れ。
子どもたちを楽しませる力。ひいては人生を楽しむ力。
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by mllegigi | 2013-02-22 14:02 |

ハートフォード小旅行④19世紀のマーサ・スチュアート

マーク・トウェイン家の目と鼻の先に、
『アンクル・トムの小屋』の作者、奴隷制度廃止論者ストウ夫人の家があった。
当時両家は仲良くしていたようだ。
マーク・トウェインは破産して、ハートフォードの家を手放すことになったが、
ストウ夫人は死ぬまでこの家で過ごした(1873~1896)。
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家をめぐるツアーに参加して、
ストウ夫人のライフスタイルを追う。
今で言うと彼女はマーサ・スチュアートみたいな立ち位置にあったのではないか。
当時は、召使いがいたので、奥さんたちは台所には構わなかった。
ところが、ストウ夫人は台所の設計を自分で考えた。
無駄がないように、スパイス、小麦粉など、どのくらい残ってるか一目でわかる棚を考案した。
コンロの台を低くして、女性の腰への負担をなくすようにもした。
彼女のアイディアはマーク・トウェインが気に入って、彼の家の台所でも取り入れていたらしい。
当時としては進んだ考え方の人で、彼女は夫とベッドを共有していた。
薬を大量に所持したり、家の中で緑を育てたりした。
植物などの絵もたくさん描いた。
次男?が行方不明になったというお話もあったように思う。
聞いたことはすぐ、忘れてしまうので、思い出したら、ここもつけ加えていきたいと思っています。
参考:ストウ夫人の家のツアー解説、『マーク・トウェインのラヴレター』(ディクスン・ウェクタ、彩流社)他
by mllegigi | 2013-02-21 17:50 |

ハートフォード小旅行③マーク・トウェインの家

愛しのスーズィへ、
とてもきれいなゆうひのときはもうふをかけて、
とうさんがかえるまでとっておいておくれ。
ーマーク・トウェイン(旅先のニューヨークから娘にあてた手紙)


ここハートフォードの家で
妻オリヴィアと娘たち3人といっしょに暮らした10年間(1870年代中頃〜80年代後半)が
彼の人生で一番幸福な時期であったとされている。
内装を担当したのは、宝石商ティファニーの2代目。
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ユーモリストの面目如実の家とは?
『マーク・トウェインの家』『召使いの部屋』2つのツアーに参加して
家中を歩き回り、お話を聞きました。

*ヨーロッパから取り寄せた天使の彫り込まれたベッド。
 天使が見たいからと、逆向きに寝ていた。
*子供部屋に電話のようなものを設置(彼の発明)し、
 彼女たちが必要なときにすぐ大人を呼べるようになっていた。
*「家の主とは、いつでもそこに遊びにきている人たちのことでもある」(エマソン?)
 という言葉を暖炉に彫り込み、その通りの生活をしていた。
 まいにち客が来る、誰にでも開かれた家だった。
 パーティのあと、帰りそびれた人が泊まる部屋もあった。
*ヘンリー・ジェイムズが嫌いだったので、彼の本は一冊もない。
*一番上の階のビリヤードのある部屋は彼が自分でデザインし、
 天井にはパイプの絵の壁紙が。
 夜遅くまで男の客たちが女性に邪魔されずに楽しめる居心地のいい部屋であった。
*集中するのが苦手で、もの書き部屋にあるビリヤードでついつい遊んだり、
 娘たちの部屋でよく寝ていた。
*シャワーもあったし、お湯!も出た。もちろん召使いも台所でお湯を使えた(彼の発明)。
*この家では黒人に、高い賃金が支払われていた。
*召使いの部屋をいちばん日当りのいい南側に、応接室を北にしたのは当時は珍しいことで、
 来客は驚いたが、応接室のインテリアを日差しから守りたいという意図があった。
*テーブルに花を飾ると会話などの邪魔になるので、花器は天井から吊るした。
*台所の流しには、木を使い、大切な食器を召使いが割らないように工夫した。
*トウェイン家の女性たちは、おそらく、台所には一歩も足を踏み入れたことはなかった。
などなど同行者といっしょに思い出したことを、追加していきたいと思っています。
by mllegigi | 2013-02-21 01:07 |